「老子に学ぶ」シリーズ
「老子」を読みながら、そこで学んだ事や感じた事について書いてます。
今回は 第34章です。
※本記事は「老子の解説」ではありません。あくまでも僕が読んで感じた主観的な「思うこと」を書きます。身勝手で主観的で間違った解釈が含まれている事も、当然あります。
そんな部分は、是非とも温かい目で「スルー」して頂ければ、助かります。※
Start [老子 第34章]
さて、どんな事が書いてあるのでしょうか…
大道は氾として、
其れ左右す可し。
万物、之を恃みて生ずるも辞せず。
功成りて有を名のらず。
万物を衣養して主と為らず。
常に無欲なれば、
小と名づく可し。
万物、これに帰して主と為らず。
大と名づく可し。
是をもって聖人の能く大を成すや、
其の終に自ら大と為さざるを以て、
故に能く其の大を成す。
老子 第34章
う…
またまた、なかなかの難解ぶりですね…
こんな意味かな…
「大道」はあふれた水みたいに
左右に広がって行き渡るんだ。
あらゆる物が「道」を頼りに
生まれて出てくるけど、
「道」はそれを拒む事もしないし、
自慢する事もないよ。
「道」はあらゆる物を育てながら、
それを支配しようともしないんだ。
いつも無欲だから、
とりあえず「小」みたいに思われちゃうけど、
あらゆる物がすべて「道」に還って、
しかも「道」は主にならないんだから、
ホントは「大」って呼ぶべきなんだよね。
そういうワケで聖人はいつも謙虚で
「大」として振る舞わないんだよ。
だからこそ人々は聖人を
「偉大な存在」として尊敬するんだよね。
つまり
今回、僕はこの章で…
本当に大きな存在は、
その事を誇示しないもの
…と言う事が大切なんだな、と感じました。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございます。